アメリカ人は、原爆が対日戦争を終結させたと主張 人的犠牲は語らず
ワシントンポスト掲載記事 (2020年8月7日)
スーザン・サザード
『ナガサキ-核戦争後の人生』みすず書房(2019)の著者
原著 Susan Southard. Nagasaki: Life After Nuclear War. NY, Viking, 2015.
https://www. susan southard .com
1945年の米国による長崎への原爆投下について、私が米国内の聴衆に話をして5年になる。長崎原爆は拙書『ナガサキ-核戦争後の人生』の主題であるのだが、私がとても耐えられないのは、「原爆が戦争を終結させたのだ」と、 時には私に向かって怒鳴るように言う人がいることだ。「連合軍の本土上陸を回避することができて、100万人(いくつか別の数値もあるが)の米国人を救ったのだ」と。あるいは、「日本が降伏の態度を示さないので、我々は原爆を投下するしかなかったのだ」と言うのだ。
もっともな怒りとして、彼らは日本軍の残虐行為を指摘する。日本軍の真珠湾攻撃、中国人に対する日本軍の残虐行為、連合軍捕虜への拷問と殺害などである。これらを考慮すると日本人が被ったことは当然の報いだとまで言う人もいる。原爆犠牲者にどんなことが起こったのかについて議論をしようとしても、米国人の中にはそうした事実については謝罪しなくてよいと信じている人が少なくない。また、私が生き残った被爆者に焦点を当てると、戦争末期の数か月間に戦って死亡した米国人兵士たちを中傷することになるとの発言もある。また、日本本土侵攻になれば犠牲になっていたかもしれない兵士の命の価値を軽んじることになるとも言う。彼らの反対意見の内容如何に関わらず、話す口調は、攻撃的で怒りに満ちている。彼らが強調するのは、75年前の原爆による攻撃が必要であったかどうかであり、長崎の人々がどんな目にあったかではないのだ。
数世代にわたり、米国人の議論は「原爆投下は必要であったか」という段階のままで、人的影響については、無視するか否定するかにとどまった。そもそも当初から米国当局は、決定的な情報を隠蔽し、決め手となる事実を歪め、原爆投下は極めて重大で、避けられない軍事的行為だったとしたのだ。戦後になると米国政府の指導者は、日本の新聞の原爆報道を検閲し、米国のメディアによる人的被害の報道を制限し、高線量の放射線被ばくがもたらした言語に絶する苦しみと死を否定した。
米国政府高官らは、米国の民間で高まりつつあった原爆投下批判の風潮を抑制し、政府が進める更なる核開発計画を一般国民が支持するようにと、原爆投下翌年の1946年からキャンペーンを始めた。最高裁判事フェリックス・フランクフルターは、元陸軍長官ヘンリー・スティムソンの長年の友人であったが、 彼は次のように言っている。「(原爆投下)反対者らの“いいかげんな感傷性”を政府は鎮める必要があった」。 『月刊 アトランティック』 Atlantic Monthly (1946年12月号)によると、カール T. コンプトン(MITの学長で原爆の開発に協力し、高く評価された物理学者)は、日本本土への上陸作戦を実施した場合の推定死傷者数を予測し、2つの原爆の使用は唯一納得できる選択だったとした。その証拠に、長崎への原爆投下後、一日もしないうちに天皇が降伏の決断をしたではないか。これこそ、原爆が戦争を終結させた証拠である―と述べた。
こうした政府によるキャンペーンは、スティムソンが「原爆使用の決定」に関する記事を書いて最高潮に達した。記事は、『ハーパーズ マガジン』 Harper’s Magazine(1947年2月号)に掲載された。前出のコンプトンの論旨をさらに補っているが、重大な誤謬や脱落が見られる。例えば、米国政府高官らは日本の降伏条件として、天皇の解任を含むべきだという要求を取り下げるべきかどうかについて議論した。スティムソン自身は日本の早期降伏のために、この方法はありうると承知していたのだが、彼はそれについては触れていない。また、彼は、1945年8月にソ連が日本に対する軍事攻撃に参加したという最も重大な軍事的展開を見逃した。これは、日本側から言えば2つの前線で戦わねばならない状況も想定される展開だった。ソ連の参戦が対日戦争への連合軍の戦略を変え、日本本土上陸作戦を実施しないうちに戦争終結となっていたかもしれないのだ。スティムソンは以来、軍人としての権威と方略的な推論に基づき、ある一つの原爆物語を考えたのだ。すなわち「広島と長崎への原爆投下は戦争を終結し、100万人のアメリカ人の命を救った」という物語だ。それはあまりに道義をわきまえた話で、他の案を押しのけてアメリカ人の記憶と認識の基盤を形成した。
しかし長崎への原爆投下が日本の降伏をもたらしたという歴史的証拠はない。8月9日の朝、長崎への核攻撃の11時間前に、日本の指導者らは、ソ連が日本の領地であった満州へ大規模な侵攻を始めていることで、すでに自制心を失っていた。長崎の上空にきのこ雲が高く上った頃、日本の指導者たちは、降伏すべきかどうか、どういう条件のもとで降伏するか―について激烈な議論を交わしていた。広島に次ぐ二つ目の原爆投下に関するニュースは彼らの協議にそれほど明確な影響を与えなかった。彼らの会議録によれば、会議は夜に至るまで終日続いたが、その間に長崎についての言及はなかった。その夜遅く、天皇は降伏の承認をし、膠着状態を解消した。
ただし、真の問題点は、原爆投下の必要性を議論すればするほど、私たちはもっと差し迫った問題に立ち向かえなくなる恐れがあることだ。たとえ2つの原爆投下が決定的に日本の降伏に繋がっていたとしても、非戦闘員の大量殺戮と彼らの放射線被ばくが正当と言えるのか。また、私たち米国市民が米国政府当局の公的談話をそのまま受け入れ続けることの真の意味とは何か。
長崎だけで、7万4千人が1945年の終わりまでに亡くなった。当時、犠牲者を数えることはできたのだ。軍人の犠牲者は、150人のみで、7万5千人もの非戦闘員が負傷し、被爆した。広島では、さらに14万人が殺された。もし、彼らの死と負傷と被爆を容認するとすれば、どこで線引きをすればよいのか。いかなる紛争にしても軍の勝利を達成するために、いったい何人の非戦闘員が犠牲にならなければいけないのか。
例えば、13歳の少年の顔や体を故意に焼くことは許されていいのか。あるいは、10代の少女が9歳の弟の炭化した遺体を見つけるために、ずたずたの制服の名札だけを手掛かりにしたこと。また、12歳の少女が原爆の爆発による負傷はなかったのに、1か月後に発熱し、歯ぐきからの出血、脱毛、放射線被ばくの証拠を示す紫色の発疹が体中に現れ、1週間痛みにもだえ苦しみ死んでいったこと。こうしたことは、いったい許されていいのか。さらに何千人もの人々が同様の症状でもだえ苦しみ、その兆候は即座に現れ、人間がこれまでに受けた線量よりもはるかに高い放射線に全身を曝されて死んでいったことも許されていいのか。
妊娠中の女性は自発性の流産、死産、子の死亡を経験した。子宮内の胎児は、放射線に曝された。無事に出生した子どもの中には、身体的・知的障害を発症した例もある。これは道義的に正しいと言えるのか。何年も廃墟で暮らし、炭化した人骨の散乱する土地の上に建てられたお粗末な小屋で、自ら傷つき具合が悪いにもかかわらず、共に傷つき放射線を浴びて瀕死状態の愛する家族の世話をした。これも道義的に正しいと言えるのか。原爆投下の3年後、癌発症率が高くなった。1950年代初期までには多くの被爆者が、肝臓、内分泌腺、血液、皮膚疾患、中枢神経の不全などを発症した。これも道義的に正しいのか。戦後30年を経て、癌発症率が急騰した。今日もなお、放射線科学者は、被爆2世,3世の遺伝学的影響を調査中だ。放射線被ばくが知らぬ間に人体を蝕む性質については、まだ不明な点が多いと気づかざるを得ない。
私は、太平洋戦域で亡くなった米国軍人の死を悼み、もうこれ以上米国や連合軍の兵士の死を望まない。しかしながら、一旦私たちが戦争に関わったなら、私たちの道義的義務は、できるだけ多くの自分たちの兵士の命を救うことだけでは終わらない。非戦闘員を傷つけたり殺したりすることを、何としても回避する義務がある。これが基本的で時につらいことではあるが、広く同意を得た戦争の倫理なのだ。
原爆投下の必要性の議論にこだわるあまり、私たちは意図的な大量殺戮や非戦闘員に対して終生に及ぶ障害を残すことの是非を論じ忘れている。日本への核兵器使用は避けられなかったとする見解は、歴史に背くものである。私たちがかつて敵と呼んでいた国の2つの都市全体がこうむった運命の重さを量るとき、私たちは心地よい距離を維持し、あるいは道義的優越感さえも持ち続けるままでいいのか。地球上に1万3千発以上の核兵器(これらの核兵器は日本に投下された原爆よりはるかに強力である)が存在する現実を私たちは当然のこととして受け入れており、これらの大量破壊兵器を今後使用する可能性を暗黙の裡に了解している。一人の子ども、1つの家族、1つの都市が核戦争でどのように引き裂かれるのかについて直視する時が来た。被爆者こそ、この事実を私たちに教えてくれる。私たちは真摯に耳を傾けねばならない。
(中村朋子 訳)